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【作品名】⑬橋のある風景

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冨田 憲二(KENJI TOMITA)
島根県生まれ
1947-
​【作品に関して】
人間は道によって、その生活圏を際限なく拡大してきました。そこでいろいろな障害に出会い、いったんは妨げられ立ち上がりますが、やがて、それを越えようとします。橋は障害物を越えようとする人間の意志の力の具体的な表情のように思えます。
今や自然景観、都市景観の中におびただしい橋が存在し、道の延長上の川や湖沼や海峡の水の上を越えるばかりではなく、鉄道や高速道路のように、街や村の頭上を縦横無尽に超えていきます。
橋は単なる障害物を乗り越える手段にとどまらず、未だ見ぬ隣の生活圏、文化圏への驚異、憧憬、友好など特別の意味合いがこめられていたはずですが!

 

【制作】’94米子彫刻シンポジウム
【会期】1994
年7月16日~8月28

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【’94米子彫刻シンポジウムを終えて】

まちなかで石を刻むことがよほど困難になってきたというのに、城山の軒先を石工の制作のために7年間も解放される。そのおおらかさはどこからくるのでしょうか。

ひと夏、45日間、不思議に思ったものです。猛暑と渇水、加えて全国到る所から水不足の悲痛な報道が流れる中、米子の町の人々はあたかも平然とした、いや自信に満ちた顔をしておられる。そのゆとりはいったいどこからくるのでしょうか。きっと白砂を押し流すほどの雄大な地形が豊富な水源をもたらし、生活にうるおいを満たしているのでしょう。私などは、もし断水したら中海の水をバケツに汲んで石の磨きに使おうなんて余計な思案をしたことを覚えています。

さまざまな生業が人々の手の触れるところでかたち作られ、材料や道具までが道端に溢れていたのはそんなに昔のことではなかったように思えます。子供達は、そのできあがる工程の妙に胸を踊らせ、驚異と羨望とを抱きながら未知の世界へ巣立っていったのです。4回続いた彫刻シンポジウムは、性急に事が運んでしまいがちな再開発事業に一石を投じたばかりでなく、今後さまざまな分野に影響を及ぼすに違いありません。

豊かな水に浸り、この町のなりわいと共に生成されてきた、木、紙、鉄、砂、糸などあらゆる素材もまた「出会い、ふれあい」の機会を待っているのです。蒔かれた種は、肥沃な土壌がゆえに発芽し、花開くものと思います。駅ひとつ隣の安来市で育った私にとって、実に30年ぶりの長い滞在でした。帰郷の際、素通りしていた米子の町が、かくも親しく、暖かく迎えて下さるとは!ありがとうございました。

海と陸とが織りなす岸辺の稜線は、私のデッサン帳の中で、いつまでも生きづいております。


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