top of page

米子彫刻シンポジウムの軌跡

平成18(2006)年8月25日
東京造形大学 井田勝己教授

世界最初の彫刻シンポジウムは、1959年にオーストリアのカール・プランテルという作家が提案したものです。実際1957年に彼がオーストリアとドイツの国境の位置を決めるための石碑を当時の政府から頼まれたときに野外で石を彫った経験が元になって、それを大学の授業で生かせないかと奔走したんですけども、それよりも各国の作家を呼んで国内で作品を作ったらどうだろうかということに変わったみたいです。そのとき確か7ヶ国11名の作家が参加しています。1959年ですから昭和34年ですね、その時の参加作家たちが帰国して各国でシンポジウムを始めるようになりました。1961年に旧ユーゴスラビアでシンポジウムが開催されまして、何回目かの時に日本人の作家も呼ばれるようになります。それを契機に日本でもシンポジウム開催という動きが起きてきます。日本で最初に開催されたのが、東京オリンピックをにらんだ1963年に神奈川県の真鶴で世界近代彫刻シンポジウムを朝日新聞社主催で行っています。それ以後、小豆島、八王子、萩とか各地で開催されるようになりました。

米子が1988年、昭和63年に湊山公園で開催することになりました。ある意味、募金活動だけでやっていくことはほとんど不可能に近いと僕は思っていましたけど、ちょうど日本がバブルの好景気に突入する頃だったので、時代的な背景もあって外から見たらラッキーな感じでスタートできたと思います。外から見たらといいますのは、民間の若い人たちばかりで提案したために、いろんな手違いがありまして、行政のほうから全く援助が受けられず、実行委員が二人だけという時期さえありました。たった二人です。誰も聞く耳を持ってくれず途方に暮れているときに、山陰信販の亡くなられた岩崎社長とお会いすることができて、ご相談したら「やりなさい」といわれまして、「もしお金が集まらなかったら赤字は私が持つからやりなさい」とまでおっしゃってくださいました。それで何とかなるような気がしたんですが、組織を作っていく上で僕たちだけでは何もできないことがわかってきましたので、組織の核になる人がいないといけないと。行政の方面ともちゃんと話ができる人がいないといけない、ということで友松先生をだますという感じで事務局長になっていただきました(笑)。それでやっとシンポジウムを開催するスタート地点に立つことができました。

石の素材としては50トンもの御影石を岡山市の光田石材さんから無償でいただけることになり、タダでもらうのはいいんですが、岡山から米子へどうやって運ぶのかということになりまして、そのときにも友松先生が尽力されまして服島運輸さんに運賃もタダで運んでいただけることになりました。降ろすときにクレーンはどうするかということになると服島運輸さんが持っているからタダだという感じで(笑)、ほとんどタダでやってもらいました。その辺は米子人のノリのいいところといいますか、面白そうなことには興味を持ってもらえるというところで、滑り出しはすごく皆さんに協力的にやってもらえたと思います。ところが始まって二週間ぐらい、募金を一生懸命するんですが、集まらないんです。予定の金額の30パーセントくらいしか集まってませんでした。それでお盆前でしたけど友松先生に呼ばれ、個室に通されまして「どげするだ」と。こっちもそんなこと言われても岩崎さんが何とかされると言われていたしなあと思っていましたが、友松先生としては、ご迷惑はかけられないとお考えだったようで、自分は保険金を解約するのでお前農家なんだから土地を売れと言われました。つまりそれだけ責任を持ってやってもらっているんだなあと、しみじみ感じましたけれども、友松先生が保険金を解約されたら騙した本人は土地を売らないわけにはいかないと思っていましたけれど(笑)、お盆が終わったころに急にお金が集まりだしまして、予定よりもはるかに多くの、シンポジウムを運営していくには余るくらいの募金になりました。なかには男の子がビンに入れた小銭を寄付してくれることもあったし、80過ぎのおばあさんが作家のためにおにぎりを持ってきてくださったこともありました。そういう支援の広がりが、最後の日まで続きました。僕はシンポジウムの会期中は肉体的に辛くて、早く終わってくれないかなと正直思っていましたが、ある意味一番よかったシンポジウムのような気がします。米子彫刻シンポジウムの看板も実行委員のメンバーが手で書いたものなんです。捨ててあった木を補修して白いペンキを塗って、みんなで書いたんです。業者に発注なんかしていません。すべてみんなでやりました。そういう姿を誰かが見ていたんだろうなと思っています。

そんないい雰囲気のなかで、作家たちにもいい勢いでやってもらって作品も完成したんですが、一応作品設置のあり方、設置の場所は前もって作家に説明したんですけれども、最後の詰めが不分なままスタートしてしまったため、ひどい場合は作品が完成してから半年くらい設置できなかったんです。設置を希望する場所について、作家と合意が得られなかったり、受け入れる側の合意が得られなかったり、半年間くらい延びたものもありました。
それがすごく教訓になりまして、第二回(1990年)の時にはどこに設置するのか明確に決めてからやらないと駄目だということになりました。10回のシンポジウムの中で唯一の例ですけど、作品の台座まで先に決定してしまいました。作家から見たら、かなりひどい環境だと思いましたが、民間主導でやっていたこともあり、設置に手こずることで後がものすごく大変になってくるので、かなり強引な形で二回目は設置をしました。その結果として、今の彫刻ロードのプランが出てきたわけです。

第三回(1992年)からは四角い箱のような台座に置くのはいかがなものかという意見がありまして、それはもっともだということで取っ払うことになりました。この時はおそらく10回のシンポジウムの中で彫刻家と事務局が一番はっきりケン力をした(笑)というか、討論の場が一番多かったと思います。その結果、今のようにインターロッキングの上に彫刻を置いてもいいことになりました。当時は、文化ホール横の歩道は国の補助金で作られており、まだ完成検査が終わってない状況だったんですね。だから役所としては勝手に植栽を取っ払えだとか、レンガを剥げと言われても困る。ただ作家の立場としては、作品を設置するんだったら、もっとも環境のいい、将来的に見ても悔いの残らない形にしたいと思うのが当たり前です、作家の良心です。そのなかでどうするのかという話し合いが、連夜のように続きました。まさに昼間は石を彫って、夜は設置のシンポジウムでした。その中で、当時米子市の都市開発部長をされていた松岡さんが「みんな悪いようと思ってこういう話し合いをしているわけではない。みんなが米子のためにいいことになるためにはどうしたらいいかと話し合っているので、結果的にはここはよくなるんだから植栽をなくそう、レンガを剥ぐことがよければそっちがいい、自分はいいと思うから、何かあればわたしが腹を切りますからそれでやろう」と英断を下されました。東京でも長野でも多くの行政の方とお会いしましたけど、あれだけ市民サイドでものを言われた方には、初めてお会いしました。おかげで設置の方法が理想的な形になりました。その頃から「米子方式」という形ができ、言葉が生まれ、全国に流れるようになりました。ですから第三回のシンボジウムが米子においてシンボジウムのあり方の分岐点というか、初期の完成期にあたるような気がします。

四回目(1994年)になりまして、一回目から友松先生が事務局長として、やりくりされてきましたけど、募金の集まり方が非常に悪くなると同時に、市の都市計画課から設置場所がないということで、四回目で終止符を打とうと実行委員会で決めました。そこで今回は、海外の作家も呼ぽう、どうせ呼ぶんだったら美人の作家がいいというリクエストもあったりして、ドイツからオダ・ショエラーさんが見えました。

ー応シンポジウムは終わるので、過去の作家17名全員を招いてフォーラムを行いました。席上、森田米子市長さんから是非続けてほしいということで、後に市の方で「彫刻のあるまちづくり基本計画」を策定し、市議会の承認を得られました。こうして市の主導により、民間のノウハウを基にして新しい形で発足したのが第五回(1996年)からです。予算的に民間でやってた頃よりも、かなりいい感じでスタートして、環境的にも前よりいいものになったと思います。問題は、民間の場合は監査も一応ありますけど自治体ほど厳しくはありませんから、割と募金に関しても集めやすかったんですが、そういうのがなかなかできにくくなって、一般の人とシンポジウムとの交流の場が徐々に縮まっていったというのも事実だと思います。

この彫刻のあるまちづくり基本計画を見ますと完成年度は、私が78歳のときなんです(笑)、本当は。だからそれはどういうことになっているかなと今僕は思っているんですが。だけどそれだけ意欲的にやってもらいました。それから教育委員会のほうに主管が移って、今に至っているわけです。

その間に1994年に「鳥取県景観賞」を受賞したり、2004年には「美しい日本の歩きたくなる道500選」にも選ばれています。ある意味で他の組織、方面からも評価を得たシンポジウムだといえると思います。また、彫刻家の中での噂ですけども、米子のシンポジウムに参加することが石彫家、彫刻家のステイタスになるんだという話も僕は聞いたことがあります。ここに見えている作家の方々もかなりの難関を突破された人たちです。何十人かの候補の中から選ばれた数人です。たぶん初期の頃は選ばれた人も自分がリストアップされていることさえ気がついていなかったと思いますけど、極秘で半年から一年かけて資料を集めて、作家を分析して作家の選定作業を行いました。

先日、日本中の石彫をずっと撮っておられるカメラマンの藤田さんという方とお会いしたんですが、米子の彫刻ロードくらい、うまくいってる例は他にないといわれました。それはやっぱり比較しないと分からないんですよね。多くの米子市民は、他都市の彫刻設置状況を見てみたり、比較していないから、(米子の)彫刻ロードの良さが分からないところもあるんだと思います。比較せずにそれだけ見ていると問題点のほうが先に目に入るんですが、僕自身いろんな所を見ましたが、米子はかなりいいほうで、設置に関してはクオリティが高いほうだと思います。

今回休止という話から少し考えたんですが、休止をした場合、あの彫刻のメンテナンスは一体誰がするのかということですね。そこまで考えた判断なのか、それはすごく大事な部分だと思いますので、その辺を皆さんで一生懸命考えてもらえたらなと思います。後は、彫刻がなじんでいる街というのは、海外にもいっぱいありますよね。彫刻だけではなくて美術品がなじんでいる街、京都もそうですが美しい街いっぱいありますよね。それはなぜそういう街なのかということを考えますと、ひとえに都市の成熟度に尽きると思います。都市が成熟しているかどうか、都市生活が成熟しているかどうか、その辺りがこれからシンポジウムをやめるにしてもやるにしても、ひとつの観点になってくると思います。

ひとつの例ですけど、旧西ドイツのサンクト-ヴェンデルという街で20年位続いたシンポジウムがありまして、それは作家を一人か二人呼んで三ヶ月から長い時には一年住んでもらって、生活しながら作品を作ってもらうと。十字軍も通ったローマに通じる道があるんですが、その道のそばから出た石で彫ったものを置いていくプロジェクト、そういうやり方だってあるわけで、だからシンポジウムはやるにしてもやめるにしても都市が成熟しているかどうか、私たちの生活が成熟して行く方向に向かっていくかどうかということを見据えながら考えていかないと、とんでもないことになるというか、これまでやった20年間が無駄になるような気がします。
bottom of page