斉藤 和子 1960- 東京都生まれ
2004年制作
【市民から見た作品】
30投稿目を記念して「この作品、なんの形に見えますか?」と聞いてみたが、この後の項目でも触れるようにかなり抽象的な形ゆえに中々難し買ったと思う。そのような状況でもお応えくださった皆様、ありがとうございました。
具体的には「鯨」「筋肉」「アンバランスなハート」という回答をいただいた。どれも形をとらえており、なるほどなとなる回答である。この作品、面白いのは角度によって見え方が変わり、「筋肉」はストーリーズであげた写真とは違う角度で見たのではないかなと思った。360度作品を楽しむことができるのが、彫刻の魅力だと改めて感じることができた。
【移住者・CAから見た作品】
どこか柔らかい印象を与える作品で、雲のような形とも、鯨ともとれるし、または我々の抱く感情なり考えを具現化したような形にも見える。この作品の一つの特徴は色だろう。ここまで約30作品を扱ってきたが、ここまで白い作品は無かったのではないか。
彫刻とは石を削るものであり、いわゆる多くの人が想像する灰色や、えんじ色の作品が多い。また中には紅ガラを塗って朱色を表現したものもあり、作品にとって色は非常に重要なパーツである。もちろん白い作品がなかった訳ではないが、よく見ると黒の点々が刻まれているものが多い。
そう言った中で真っ白なこの作品を見ると、その色も大きな意味を持っているのではないかと考える。白といえばやはり純粋・純白なイメージがある。作品の中で考えてみると、作者の考えはもちろん入っていると思うが、そのような人の考える邪念が加わらず、頭に浮かんだ形を模したようにも思える。実際に目にしてみると分かるが、この作品は想像以上に大きい。作者の心の中が表現された作品なのかもしれない。(佐々木)
【作者の作品に関する想い】
身体で感じたことがすべてだった時代は遥かに遠い。目まぐるしく変化していく日常に、かすかな目まいを感じながら、私は過剰なまでの情報の中に漂う自分を感じている。目のまえの出来事は刻々と通過してゆき、時間の経過が止まることはない。そして私というフィルターを通って、溶け込んだものだけが記憶の池に沈んでいく。「記憶」は1987年から続いている私の彫刻のモチーフです。私の内側にある記憶の池をのぞいた時に、見え隠れするぼんやりと甘美な光に包まれた記憶。そんな曖昧な記憶が気にかかり、その断片を石という素材の中に見つけています。彫ったり磨いたりと身体を使い制作していくことで、記憶は反すうされ「記憶の形象」となるのです。そして作品は私の外側の日常にもどって行きます。また誰かのフィルターを通り、記憶の池に溶け込み沈んでいく事を望んで。再び情報の一つとなって流れて行くのです。
【編集後記】
作品を見たときに感じた抽象的な雰囲気は、作者の内側にある「記憶の池」のことであり、これはまさに形を持たないものであった。白さにかかっているのかは分からないが、作者の記憶はぼんやりと甘美な光に包まれたものであり、体を使って磨かれていた。
タイトルは「記憶」ではなく「記憶の形象」である。彫刻作成の過程で記憶は反すうされているというのが理由であった。私自身は記憶の反すうなどしたことがなく、彫刻作品を作る上で、記憶の反すうが行われ、思い描く作品のイメージが変わるのかが気になった。(佐々木)
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