前川 義春 1955- 福井県生まれ
1994年制作
【市民から見た作品】
ストーリーズ機能を用いて、「この作品、何に見えますか?」と皆さまに尋ねた。個人的には少し回答が難しいかなと思ったが、ありがたいことに皆さまから回答をいただくことができた。私と少し似た感性だと「目盛りが雑めなものさし」というものだ。確かによく見ると目盛りがずれている。100ml毎に目盛りが振られてるだけでなく、さらに細かい20ml刻みでも目盛りがあるタイプに見える。
他には食べ物編として「焼肉」という回答があった。確かに角度によっては、几帳面な焼き奉行が肉を平行に広げている時の様子に見える。表面に入った線は、網目に沿って入った焦げとでも言おうか。少しお腹が空いてきた。
【移住者・CAから見た作品】
3本の縦長の彫刻が並んだ作品。「#10 大地の刻」も同じように3つの縦長彫刻が並んだものだったが、その作品とはまるで雰囲気が違う。大地の刻が見た目的に尖すぎていた事もあるが、こちらの作品はどちらかというと柔らかいイメージを感じ取れる。もちろんトップの部分が尖っていないというのもあるが、彫刻に刻まれた筋、そして大きさや向きが不揃いな事も影響しているだろう。作者が心を込めて作った作品なので、表現は難しいが、このどこか抜けたような雰囲気がカチッとした作品が続く中で安らぎを与えてくれる。
この作品、よく見るとメモリのように刻まれた筋が、1番左と右の2つで間隔が違うことに気付く。なぜだろうか。3つの高さはどれも同じなので、メモリの間隔や、太さで1つ1つに個性を出したのだろうか。作者の想いで、その答えに少しでも近づけることを願っている。(佐々木)
【作者の作品に関する想い】
屋外に彫刻をおく場合、膨刻を成立させる要素を作品の中だけで構成してしまうのではなく、自然や探境を一つの要素と考え構成させていくことが必要です、その中から、作品に対しても、環境に対しても、より豊かなスケール感と質を生む方法がないかと考えています。「相」は外にあらわれる形から、その奥底にあるものをみつけることですが、とりもなおさず自分自身をみつめる媒介物として制作しました。
【編集後記】
作者の想いを読み、自分自身が作品の中だけで考えを完結させてしまったことを恥じた。昔、銅像は酸性雨で溶けると聞いたことがあるが(真偽は定かではない)、確かに物を屋外に置けば多かれ少なかれ作品自体に変化が現れたり、周りの環境の変化によって見え方が変わるだろう。作者はその外的要因すらも作品の要素と考えていた。そういった意味で、非常にスケール感を感じる作品だと思った。
作者は作品を、自分自身をみつめる媒介物と表現した。一体何と何を中継しているのだろうか。そして底から自分自身を何者だと解釈したのか。作品が作られた1994年から現代に至るまで、米子も大きく変化している。この環境の変化は作者にいい影響を与えただろうか。(佐々木)
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