村井 進吾 1952- 大分県生まれ
2000年制作
【市民から見た作品】
今回は今まで行っていたアンケートや、この作品に対するイメージではなく、「突然、家の前の道にこの作品が置かれていたら、どのように受け止めるか?」という角度を変えた質問を投げかけてみた。少し理解し難い内容であったと思うが、意見を教えてくださった皆様、ありがとうございました。
早速集まった意見を見てみると、人には様々なタイプがいることが分かった。まずは「まじか…」と絶望する者。その形から「ピアノ?」と驚く者。ポジティブに「とりあえず座ってみる」者。そして車の心配をしつつ、「車の出し入れができるならテーブルで使う」者。
様々なタイプがいるということも面白い気づきであったが、やはり彫刻は輝く場所(設置場所)がそれぞれにあるというところも面白い点であろう。
【移住者・CAから見た作品】
一見すると椅子のように見えるこの作品。よく見るとまるでテトリスのようにブロックが重なっているのが分かる。
仮にテトリスという視点で見るのであれば、少し空間が空いているのが気になる。この空間には果たしてどんな意図があるのだろうか。以前他の作品でも同じことを書いた事があると思うが、日本には完成させない美学もある。日光東照宮の柱の中に、あえて上下逆さまにした柱がある事は知っている方もいらっしゃるかもしれない。これはものが完成してしまうと、あとは壊れていく一方であるという考え方が隠れている。
この作品はどうだろうか。仮に隙間なくしっかりと合わされば、どんな意図であったかは別として、とても収まりのいい作品になったであろう。ただし逆に言えばただの直方体であり、それ以下でもそれ以上でもない、議論の余地がない作品になっていたかもしれない。そう考えるとこの隙間は決して意味のないものだとは思えない。この作品が、この米子彫刻ロードに並ぶためには必要な空間であったのだろう。(佐々木)
【作者の作品に関する想い】
河沿いの石加茂川沿いの遊歩道にある白御影の石塊は、直角に交わる三つの面により、二つに分割され僅かに開かれた状態で配置されている。川面の水平性と片側のコンクリートの壁面の傾き、そしてレンガタイルに覆われた遊歩道の形状によりその方位を定めた。「作法」とは、そのものの在るべき姿であり私自身の在り様である。何もなかった空間に物が置かれた戸惑いを、行き交う人々はどのように受けとめるのだろう。
【編集後記】
これほどまでに「作法」にのっとって作られた作品があっただろうか。私はテトリスのようにと表現していたが、とてもこの表現をまた使う気にはなれない。テトリスがたった一瞬でその置き場所を決めるのに対して、この作品は水平性なり、傾きなり、形状なりと、複雑に絡み合う条件の中で、最良のものを選び出されていた。
想いの最後には、この作品が道に置かれたという事実に対して、行き交う人々がどのように戸惑うかという点についても触れられている。これほどまでに綺麗な比率を意識して置かれた作品の作者が、行き交う人の心配をしているのも意外であった。ユーモアも感じる。「作法」とは行動する側の振る舞いなので、我々行き交う人々にとってはこの作品がどんな作法を持って作られたものか、なぜここにあるのかは考える余地がない。これは一体なんなんだという戸惑いも沢山あっただろう。(佐々木)
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